サン・テグジュペリ「夜間飛行」。未踏の夜の空を命がけで開拓していくスリル。挑戦し続ける男たち。
サン・テグジュペリといえば「星の王子さま」(原題 Le Petit Prince 仏)が日本では有名ですが、ほとんどが自身のパイロットとしての経験を生かした著作であり、中でも「人間の土地」と並んで高い評価を受けているのが「夜間飛行」
(原題 Vol de nuit仏)です。
略歴
サン・テグジュペリは1900年、フランスのリヨンで伯爵の子として生まれます、学生の頃は文学に傾倒し、その後志願の兵役で操縦士に抜擢、退役後は民間の航空界に入ります。
フランス-ベトナム間最短時間飛行記録に挑戦しますが、機体のトラブルでサハラ沙漠に不時着、なんと徒歩でカイロまで辿り着き生還します。この時の経験が「星の王子さま」を生んだというのは有名な話です。
第二次世界大戦では指導教官をしますが、前線を希望し、偵察部隊として飛行機に乗ります。当時のフランスのヴィシー政権がドイツと講和しとのち、アメリカへ亡命。自由フランス空軍(自由フランス軍の航空部隊)へ志願し、アフリカで偵察部隊として実戦勤務をします。
1944年7月31日、写真偵察のため単機で出撃後、地中海上空で行方不明になります。
機体はすでに海中で発見されており、撃ち落としたパイロットの証言も出ているようです。
これは簡単な略歴になりますが、飛行機に乗りたくてしょうがないんだなあというのが伝わってきます・・・。凄いのは戦時中でも彼の著作を読んでいる敵軍のパイロットがいて、熱心な読者もいたという話。彼の文学の力を感じざる終えません・・・
今回取り上げる「夜間飛行」は、そんなパイロット経験の中でも民間郵便飛行をしていた時の経験が生かされたものです。
当時、郵便は船か列車によるものが一般でしたが、航空技術の発展により飛行機での運搬が開拓され始めた頃でした。
最短で目的地に着くことができるルートの発見と確立が、事業の成功とイコールになるのです。
これは、命がけの冒険でした。
発展したとは言っても、機体の不調で墜落することもありますし、今のようにジェットエンジンで飛ぶわけではないので、天候や地形に大きく安全性が左右される時代でした。
注:当時使用されていた機体ポテージ25型機
パイロットは資本です、なので会社もなるたけ安全性を確保するために、昼間の航行をしていました。
そんな時に、より早く、誰も動かない夜にこそチャンスがあると、夜間の郵便飛行を開拓しようとするお話が「夜間飛行」です。
今でいうレーダーもそこまで発達したものではないので、パイロットの地形に対する知識や天候を読む力、目視によるところが大きかった時代、これが如何に危険なことであるかは容易に想像できると思います。
それでも彼らは、夜の空に飛び立っていきます、まるで嵐の中に自ら飛び込んでいくように。
主人公は航空輸送会社の支配人リヴィエールと、操縦士のファビアン
この二人のシーンが交互に描かれます。
リヴィエールは会社で航空中の飛行機からの無電を受けながらそれらの管理をし、ファビアンは実際に郵便物を届けに無電技師と一緒に空を飛んでいます。
行先は快晴。ファビアンは仕事を無事に終わらせる為に夜の空に飛んでいきます・・・しかし向かう先には暴風雨が待っていました。
地上との繋がりは儚い電波のみ、暗く寒い空を命がけで飛ぶファビアン、、、そしてこの危険な事業を成功させる為に、強い意思によって自らを支える、支配人のリヴィエール。
誰も未だ成し遂げていない物事を成そうとするということ、人の命を預かるという重責、それらに押しつぶされず前に進み続けようとする人間の誇り高さと強靭さに、ただただ感嘆するばかりです。
パッと読んで、リヴィエールに対して「何て冷淡な人間なんだろう」と思う方もいらっしゃると思います、でもそうではないのです、ここで描かれているのは単に無慈悲な仕事人間では無く、人間的暖かさを失わずに、それでいて高い目標から目を背けることのない人間が描かれているのだと、私は感じました。
これは、郵便飛行の話ではありますが、描かれているのは、これほどまでに強い人間がいたのかと思わせられるような魅力的な人物たちです。
その上サン・テグジュペリ本人の経験から作られているという実録としての価値、これらが合わさって出来ているこの「夜間飛行」は、ある意味で奇跡的な小説だといえるのではないでしょうか?
空に賭ける男たちの、その挑戦の軌跡を間近に見ることができるような、貴重で豊かな経験が、この短い小説には詰まっています。
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夏といえば、夏目漱石の「こころ」?
言わずと知れた夏目漱石の「こころ」、漱石の作品の中では多分一番読んだ回数が多い。
漱石といえば、「坊ちゃん」、「我輩は猫である」が読みやすくて人気が高いような・・・
こころを始めて読んだのは高校生の頃ですが、半分以上はよくわかってなかったと思います。
それから何回読んだろう。
漱石の文体が好きなんですよね、派手に煽るようなものでなく、シンプルで平易だけど、色々なことを感じさせるような、無理してないっていうんでしょうかね。自然に情景が感じられるというか。
主な登場人物は、
・学生である私
・先生(学校の先生というわけでなく、ただ私が勝手にそう呼んでいる)
・先生の奥さん
・先生の学生時代の親友であるK
こころは構成が面白くて、主人公の私(学生)の一人称と先生の手紙の部分と別れています。
読者は、この「私」の目線から先生に触れ、色々な謎や、先生の人物に考えを寄せて、一体この人何者なんだろう?何を考えているんだろう?というふうに思いを巡らせます。
その返答のような形で、先生からの手紙を「私」の視点から読むような感じになっています、読者である私たちは知らず知らずのうちに「私」に身を置いて「先生」という人物に出会う事ができるといった方がいいでしょうか。
最初の出会いのシーンはなんてことないです、鎌倉の海に泳ぎに行ったら、その当時珍しいであろう外国人と一緒にいて、海を泳いでいる一人の男が気になった、どこかであった気がする、それが「先生」であった・・・というだけなんですね。
今の時代こんなことってないかな?
気になったからといって追っかけて話しかけたりしませんよね、知り合いでもないのに。人に対する関心が、今よりあるというか、いい時代だなって思います。
「私」は「先生」を追いかけるようにして海に飛び込みます、しばらくくっついて泳いでいると、先生の方から話しかけてきます。
そこから「先生」との交流が始まります。
そして、ひとつの人生に出会うことになる。
「先生」はあなたのことは知らない、と言いつつも「私」を跳ね除けることもありませんでした、若くて好奇心のある「私」はこの人は面白そうだっていう関心から、何かしら学び取ろうとするわけです、それで「先生」と呼ぶことになる。
「果たしてこの人物は何者だろう?どんな経験を蓄えているんだろう?」という何気ない好奇心から、この物語は始まるわけです。人を知ろうとするの純粋な好奇心。
漱石の探ろうとした、関心そのもののような気もします。
日本が海外の文化に触れ、私という概念が生まれてきたそんな時代に生まれたひとつの小説。
人が人を知ろうとする小説。
日本人らしい繊細さで、人間の心の揺れ動きを捉えようとしている漱石は、そこに一体何を見ようとしたのでしょうか?
何度読んでも興味のつかないこの小説は、何か大切なものを抱え込んでいるような、そんな魅力があります。
内容は重いところもありますが、当時の日本の空気を味わう事もできますので一見の価値ありです。
「こころ」とは一体何か?
そんなことを考える時間を持つのも、時には大事なのかなと。
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海底二万里を読み始めた。
今更ですけど、ジュールヴェルヌの「海底二万里」を読み始めました。
これ、面白いです。なんで今まで読まなかったんだろうとちょっと後悔・・・
まだ読み終わったわけではないので、レビューとはいきませんが、読み始めた自分が感じているワクワク感が伝わったら嬉しいです。
導入のあらすじをザックリ説明すると、
時代は1866年、大西洋に謎の海難事故が多発。原因を、未発見の海中生物によるものと考えたアナロクス教授が、使用人のコンセイユと共に高速フリゲート艦に乗り込み正体を解明する航海に出る・・・といった感じでしょうか。
導入の部分でも十分に読み手を引き込む力を持った海洋冒険ロマンだと思います。
何よりまず、当時の世界状況、科学や造船技術等への著者の知識に裏付けられた説得力のある世界観。そして随所に挿入された密度の高い挿絵版画。
読んでいるうちに、目の前にヴェルヌの世界が広がっていくようです。
自分には見当もしない装置や環境であるにもかかわらず何だか肌身にそれらを感じ取れるような・・・。小説では当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、なんというか、表現に時代独特の「厚み」があるんですよね。
タイムスリップする感覚と言ったら良いでしょうか。その場の生活音、機械音が聞こえてきそうです。
今の時代に読むからこそのトリップ感があります。
何でもそうだと思いますが、冒険の始まりというのはワクワクするものです。
果たしてこの広い海の底では、一体何が起こっているのか?
謎の海中生物は本当に教授の予測通り、巨大イッカクなのか?
出典 イッカク - Wikipedia
世界中で発生している事件を解決するために、主人公たちは当時最先端の船と技術を持って海に乗り出します。
このワクワク感、出版当時はもっとドキドキしたんだろうなと、思いを馳せてしまいます・・・
海に出たフリゲート艦は、長い探索航海の末、事故の元凶である謎の生物?に遭遇します。
最新鋭の船をおちょくるような行動をするそれの正体は、一体何なのでしょうか・・・
冒険物にネタバレは禁物ですので、これ以上は書きませんね。
読んだことのない方は是非、この冒険に一緒に立ち会ってみましょう、きっと思いもよらない不思議や発見があると思います。
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夏の休止、森の生活
不意に涼しくなった、照りつけるような日差しや台風が立て続けに来た猛烈な夏だと思ったら、さらっと涼しい日が来た。
天候のことは誰にもわからない、まして自然災害なんて一週間先どうなるかもわからない。
それでも不安を抱えて生きるのは嫌なので、もう開き直って清々とした気分で、何でも来やがれと思った方がよっぽど健やかに生きれる気がする。
あんまり先のことは考えず、のらりくらりと生きていきたいなあなんて、ちょっと思った。
ウォールデンの「森の生活」という著書があるけれど、ノンフィクションで自給自足の生活を描いた回想録で、自然に身を任せながらも、生きる糧を自分の力で得ていく。
- 作者: H.D.ソロー,Henry David Thoreau,飯田実
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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ただ日々を生きるために生きる。
こういうシンプルなあり方も楽しそうだ。
是枝監督新作映画 万引き家族レビュー(ネタバレ有り
監督
引用
少し前に映画館で是枝監督最新作の万引き家族を観てきた。
是枝監督の作品は「誰も知らない」以降チェックはしていなかったのだけれど、ふと立ち寄った映画館で、時間もちょうど良かったので観てみることにした。
結論から言うとすごい映画だと思った。
映画は冒頭、見るからに金のなさそうな親子の柴田治(リリー・フランキー)、とその息子祥太(城桧吏)が万引きをする所から(たしか・・・)始まるのだが、その帰りに家族に家庭内暴力を振るわれている少女ゆり(北条じゅり)を見つけ、置いておけず家に連れて帰る所から始まる。
引用
是枝監督が『万引き家族』で描こうとした世界 「多様な人がいるのが自然で、その方がいい」
家に帰ると、そこには雑多に暮らした家族がいるのだが、種を明かせばこの家族、誰も血が繋がっていないのだ。
これは映画のクライマックスで明かされていく事なのだが、観る側は一抹の疑問を抱えて,映画の後半までそれを知らずに観て行くことになる。
家族は其々に過去を持っているが、家にいる時はまるで本物の家族のように過ごしている、そこには貧乏でもみんなで暮らせれば楽しい、支え合っていこうという美観が垣間見えるが、これは「力の無い、社会の端で隠れながら生きざるを得ない人達の寄り集まり」なんだと思った。
恐らく映画を観ている人達は、万引きという犯罪に抵抗を感じながらも、そうやってでも生きていこうとする登場人物達に同情と憐憫(共感?)を覚えて行くだろう。そしてなにより本物の家族らしく在ろうと、互いの繋がりを確かめ合う姿に、ある羨望を覚えるのではないだろうか?
そういった気分が高まったところで、映画は急展開を見せる。
祥太がゆりを庇って(万引がバレそうになり、祥太がオトリに自らなる)警察に捕まってしまうのだ。
逃げようとした祥太は道路のガードを乗り越えようとして転落、警察に捕まり病院にはいり、そこで事情聴取を受ける事になる。
祥太が捕まったことを知った柴田家は(すいません、何で知ったのかは忘れてしまいました…)夜逃げをしようとするが、家を出ようとしたところを警察に捕まってしまう。
ここで家族達の真実が白日の下に明かされていく、柴田は痴情の縺れで人を殺した殺人犯であった。
亜紀(松岡茉優)は初枝(樹木希林)の旦那の不倫相手?の孫娘であった。(うろ覚えです…)
引用
祥太、ゆり、亜紀、は警察伝いにそれらの真実を伝えられる事になり、其々の居るべき場所に戻されていく。祥太は保護施設へ、ゆり、亜紀はもとの家族の家へ。
信代(安藤さくら、柴田治の相方)が事情聴取の中のシーンでこう言っていたと思う
「私たちは盗んだんじゃない、誰かが捨てたものを拾ったんだ」
これは観るものに向けられた言葉だと思った、果たして彼らは本当に「悪いひとたち」なのだろうか?
生きる事に必死で、誰かとの繋がりに貪欲な彼らを、私たちは罰することが出来るだろうか?
社会が降した判断は正しかったのだろうか?
常日頃表面的にしか報道されない犯罪や事件に「ああ悪い人が捕まって良かった」と安堵している私達は、本当にそれだけでいいのだろうか?
あらゆる複雑なテーマが提示されたこの映画を観て、私は自分の事を省みた、そして同時に、今目の前にいる人を大切にしたくなった。
家族とは血なのだろうか?人間の繋がりはもっと違う所でも生まれる事があるんじゃないか?
ネットの広がりによって稀薄になって行く生身の遠い繋がりを、私達はもう当たり前のように受け取っている、
その反動がどういった形で社会に現れてくるのか、私には想像もつかない。